1865年、サンクトペテルブルグ音楽院生最後の年、25歳のチャイコフスキーは嬰ハ短調のピアノ・ソナタを書きました。しかしながら、これはチャイコフスキーにとっては習作であり、生前に出版されることはありませんでした。したがって、1878年に書かれたト長調のグランド・ソナタは、チャイコフスキー唯一のピアノ・ソナタというべき作品でございます。
1870年代半ば頃からの数年間はチャイコフスキーの「傑作の森」、第1ピアノ協奏曲に始まって傑作・佳作が続々と生まれた時期でした。1877年には不幸な結婚によって精神的に大きなダメージを蒙りましたが、その前後には3つの大傑作、第4交響曲、オペラ「エウゲニ・オネーギン」、ヴァイオリン協奏曲が書き上げられ、創作の上ではきわめて充実した数年であったと申してよろしいでしょう。
チャイコフスキーのピアノ曲の大作、グランド・ソナタが生まれたのは、まさにこの「傑作の森」の頂点の時期でした。
1878年の3月、チャイコフスキーは弟のアナトーリに宛てて、大略以下のような手紙を送っております。
「朝の散歩の後、夕食まで作曲を続けた。ピアノのためのソナタに取り組んでいるんだ。しかし、この曲のことは話題にしないでほしい。今のところ、このソナタはうまくいっていないんだ」(1878年3月15日)
「よく眠った後、散歩をした。ぼくはまたこの曲に対するやる気をなくし、自分を責めた。作曲に集中する好条件はそろっているんだ。なのに、どうしてこれほど書く気が起きないのだろう。ぼくは疲れているんだろうか?ソナタを書くために、自分の中から平凡で無味乾燥なアイディアを強引に絞り出し、1小節ごとに無理やり筆を進めなくちゃいけない。しかし、そのうちにインスピレーションが訪れ、目標を達成できるだろうことを、ぼくは願っている」(1878年3月16日)
ここには、チャイコフスキーがピアノ・ソナタの作曲にきわめて難渋している様が見て取れます。
ところが、この同じ時期、ラロの「スペイン交響曲」に魅了されたチャイコフスキーは、自分でもヴァイオリン協奏曲を書きたいという熱意が沸き上がります。ソナタと異なり、協奏曲は強いインスピレーションに恵まれたようで、この時期の手紙で、チャイコフスキーは大略以下のように書いております。
「仕事は順調に進んでいます。小さい曲の他に、ピアノのためのソナタとヴァイオリン協奏曲を書いています」(1878年3月17日/フォン・メック夫人宛て)
「昨日から始めたヴァイオリン協奏曲を午前中ずっと聴いていたのだが、あまりに夢中になって、ソナタの方はやめてしまった。この協奏曲はぼくにとっては新しくて難しい仕事だが、同時にとても面白い」(1878年3月18日/弟アナトーリ宛て)
「今日も一日中雪が降っています。けれども、私はまったく退屈していません。仕事に集中しているおかげで、私は時間が経つのを忘れています。ヴァイオリン協奏曲の作曲は私を惹きつけてやみません。これまで私は、目の前の仕事が終わるまで新しい仕事に決して着手しないという自分なりのきまりを常に守ってきました。しかし今回、協奏曲を書きたいという気持ちを抑えきれず、ピアノ・ソナタは当面放置することにしたのです」(1878年3月19日/フォン・メック夫人宛て)
こうして、ピアノ・ソナタはしばらくの間放棄され、作曲再開はヴァイオリン協奏曲完成後、5月になってからでした。
「私の健康状態はずっと良くなりました。仕事は順調に進んでいます。今、ピアノ・ソナタを仕上げています」(1878年5月5日/フォン・メック夫人宛て)
「仕事は順調だ。おまえが帰ってから、ぼくはソナタの3つの楽章、ワルツ、そしてもう1つの小さな曲を書いた」(1878年5月9日/弟アナトーリ宛て)
「日々は判で押したように過ぎていきますが、この生き方は、私には非常に性に合ったものに思えます。仕事は捗り、ソナタはすでにかなり完成に近づいています」(1878年5月12日/フォン・メック夫人宛て)
「ぼくはスイスで作曲したピアノのためのソナタを書き直し始めたよ。気の毒なユルゲンソン…」(1878年6月28日/友人で出版者のユルゲンソン宛て)
「オーケストラ以外のさまざまな作品を完成させたばかりで、しばらくは何もしないで気楽にやるつもりだ。ピアノのためのソナタを書き上げ、ヴァイオリン曲を3つ、12の小さなピアノ曲、子供のための24の小さなピアノ曲(子供のアルバム)、6つの歌曲、そして混声合唱のための『聖ヨハネ・クリュソストモスの典礼』。哀れなユルゲンソンは、馬車馬のように働かなきゃならなくなった」(1878年8月3日/友人のアルブレヒト宛て)
ソナタの完成日は「7月26日」と作曲者自身の手で記入されております。中断を挟んだとはいえ、およそ4か月の作曲期間は、この種の作品ではチャイコフスキーにしてはかなり長期に亘ったというべきかもしれません。
ちなみに、ユルゲンソンに宛てた作曲料請求の手紙で、チャイコフスキーは以下のようなことを書いております。
「ぼくが受け取りたい料金は次のとおり。
1)ピアノ・ソナタ 50ルーブル
2)ピアノのための12の小品 300ルーブル(25ルーブル×12)
3)子供のアルバム 240ルーブル(10ルーブル×24)
4) 6つの歌曲 150ルーブル(25ルーブル×6)
5) 3つのヴァイオリン曲 75ルーブル(25ルーブル×3)
6)クリュストモスの典礼 100ルーブル
以上合計915ルーブル、端数を削って900ルーブル。
ただし、一度にたくさん書いたという事実を考慮して、これらすべてを合計800ルーブルにまけておくよ」(1878年8月10日)
当時の1ルーブルをものすごく大雑把に今日の1万円程度とすると、ソナタは50万円というところでしょうか。この金額設定からも、チャイコフスキーの中ではソナタに対する自己評価が低かったように思われます。
曲は1879年11月2日にニコライ・ルビンシテインによって初演されました。チャイコフスキーは自身が「やや乾いた複雑な曲」と評したこの曲の演奏に満足しましたが、作品自体は同時期の第4交響曲やヴァイオリン協奏曲のようなポピュラリティを獲得することはできず、2年前の曲集「四季」のように大衆に受容されることもありませんでした。
1879年に出版された際、曲名は「グランド・ソナタ」とされ、モスクワ音楽院の同僚で友人のクリントヴォルト(Karl Klindworth ; 1830〜1916)に献呈されました。
全曲は4つの楽章から成り、非常な力作であることは明らかです。にもかかわらず不人気としかいえないのは、チャイコフスキー自身が意識していたように、インスピレーションの不足を補うような技術的な力技で作り上げられた曲という印象を聴く者に与えるからかもしれません。
とはいえ、腐ってもチャイコフスキー、やはり探せば魅力的な要素は見つかるもので、19世紀のピアノ・ソナタとして独特の存在感を放っているのは事実かと存じます。実際、ロシア国内では、この作品は名曲として扱われているということでございます。