◇「イーゴリ公」序曲◇
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オペラ「イーゴリ公」はボロディン畢生の大作でございます。
ボロディンはこの作品の作曲におよそ18年ほども費やしておりますが、残念ながら未完に終りました。作曲者の没後、旧友のリムスキー=コルサコフとその弟子グラズノフが遺稿を整理・補筆して完成し、現在では19世紀ロシアオペラの重要なレパートリーとして定着しております。

さて、その序曲でございますが、正確に申しますと、実はボロディン自身の作品ではございません。
生前、ボロディンは序曲のプランをメモし、また友人たちの集まりでピアノで弾いて披露したりしてはいましたが、きちんとした楽譜の形には仕上げておりませんでした。現在の序曲は、残された手記とボロディンの演奏の記憶をもとに、グラズノフが書き上げたものなのでございます。
実はこのグラズノフ、驚異的な記憶力の持ち主でございまして、一度聴いたオーケストラ曲をほぼ正確に記憶に頼って総譜に書き起こすことができたという噂でございます。かつて聴いたボロディンの演奏を再現することなど、屁でもなかったのかもしれません。すごいぞ、グラズノフ\(^o^)/


序曲は、Andanteの導入部で開始されます。これは第2幕の「イーゴリ公のアリア」の前奏部分に基くものでございまして、特にこれといった明確な旋律は出てまいりません。導入部の終わりに現れる動機は「プロローグ」でイーゴリ公の妻ヤロスラーヴナが登場する場面で現れるモティーフでございます。

Allegroの主部はソナタ形式でできておりますが、主要な楽想はオペラの中のものでございまして、その意味ではこの曲、たしかに「ボロディン作曲」と申してもよいかもしれません。
まず、第1主題に先立ちまして、低音のトレモロの上でファンファーレが鳴り響きます。これは第3幕のポロヴェツの陣営で吹奏されるファンファーレでございます。

ファンファーレの頂点で第1主題が勢いよく飛び出してまいります。第4幕で歌われます、帰還したイーゴリ公とその妻ヤロスラーヴナの歓喜の二重唱の旋律でございます。ただし、私の解釈によりますと、これは見かけの第1主題でございまして、真の第1主題はそのあとに出てくる第3幕の三重唱の旋律なのでございます。たいていの解説書では、これを単に「推移部」として扱っておりますが、どうも納得いたしかねます。私としましては、見かけの第1主題と真の第1主題を合わせて「第1主題部」と考えるのが、いちばんすっきりするように思えるのでございますが。

続きまして、第2主題部に入ります。
まずロシア民謡っぽい動機が出ますが、これは第2幕の「イーゴリ公のアリア」の旋律でございます。それに続いて現れる優しい主題は同じアリアの中間部の旋律で、ここでは故国に残してきた妻に対するイーゴリ公の愛情が歌われております。同時にこの旋律、第4幕のヤロスラーヴナのアリアにも出てまいりまして、さながら「愛の旋律」とでもいうべき役割を担っていると申せましょう。
曲は次第に静まり、ヤロスラーヴナ登場の動機が再び現れますと、展開部に入ります。

ここではまず、真の第1主題低音で現れまして、反復転調しながらだんだんと曲を盛り上げてまいります。
続きまして、ファンファーレの動機と見かけの第1主題が組み合わされて展開されたあと、特徴のある3連符のリズムが現れて華々しく乱舞いたします。これは第2幕の「コンチャーク汗のアリア」の伴奏部分でございます。その頂点でファンファーレが吹奏され、再現部へ突入いたします。

再現部の第1主題部は若干の省略はありますものの、ほぼ提示部をそのまま繰り返しております。
第2主題部も同様でございますが、愛の旋律の後半部では特記すべきイベントが待ち受けております。
と申しますのは、ここで愛の旋律真の第1主題とが、同時に演奏されるんですねぇ。このように、複数の主題を同時に重ねていっぺんに鳴らすというのはボロディンの好んだ手法でございまして、交響曲はもとより「中央アジアの草原にて」や「ダッタン人の踊り」などでも使用されて大きな効果を挙げております。編作者のグラズノフも、この部分については特に「ボロディンの意図を忠実に再現した」と断っているほどでございます。

このあと、曲は展開部に使われた素材をもとにコーダに突入し、華麗に幕を閉じるのでございます。
なお、最後の16小節につきましては、スケッチも記憶も残っていなかったようでございまして、グラズノフは「ここだけは完全に自分が作曲した」と述べております。

(2004.3.9)

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