◇「ボリス・ゴドゥノフ」の時代背景◇ |
文中、この色で表示されておりますのは、オペラの中の登場人物でございます。 |
このオペラはロシア史上の一時代を舞台としております。それは「動乱時代」と呼ばれる期間でございまして、およそ16世紀末〜17世紀初頭にあたります。 わが国では、安土・桃山時代から江戸時代初めの頃でございますね。
「タタールのくびき」という言葉がございますが、中世ロシアはチンギス汗の興したモンゴル帝国の分国、キプチャク汗国に支配されておりまして、これがロシアの後進性を決定した重大な要因とされております。
さて、イワン雷帝には3人の息子がおりましたが、長男は死亡したため(父親であるイワン雷帝に殴り殺されたんだそうですよ。コワイですねぇ)、雷帝の死後帝位についたのは次男のフョードルでございました。
皇帝フョードルは暗愚でございました。フョードル時代にロシアは積極的な商業政策で国内の経済基盤を強化し、また国際的な地位も向上するのでございますが、これらはすべてボリスの推し進めたものでございます。しかしながら、暗愚でも皇帝は皇帝、かりにフョードルが崩御したとしましても、次期皇帝の地位は皇太子ディミトリーに回ってくることになっております。
ところが1591年、皇太子ディミトリーが謎の死を遂げるんですねぇ。今日の定説によりますと、どうやら死因は癲癇(てんかん)の発作による事故死だったということなのでございますが、世間にはボリスによって謀殺されたという疑惑が広がり、暴動まで発生いたします。 1598年、皇帝フョードルが跡継ぎのないまま崩御いたします。ボリスにとっては最大のチャンス到来でございます。
ボリスは修道院に閉じこもり、政務を見なくなってしまいます。アジア的専制政治に慣れたロシアのこと、皇帝なしでは政治が機能いたしません。間もなく、あちこちから新皇帝要望の声が聞こえ始めます。
機は熟しました。 盛大な戴冠式が執り行われ、いよいよ皇帝ボリス・ゴドゥノフの誕生となったのでございます。 帝位に就いたボリスの政治は、善政というべきものでございました。ロシアの国力は増大し、経済基盤も強化されたようでございます。
ところが1601年から03年にかけて、ロシアを大飢饉が襲います。 ちょうど時を同じくしまして、ポーランドの貴族ムニシェク家の令嬢マリーナと婚約したディミトリーという男が、ポーランド軍の支援のもと、モスクワに進軍してまいります。このディミトリーは自らを「イワン雷帝の三男で、死んだと思われていた皇太子」と称し、ボリス憎しに凝り固まった民衆も、歓呼して「われらが皇太子」を迎えるのでございます。 この混乱のさなかの1605年、ボリスは心労のためか、息子フョードルを後継者に指名すると、あっけなく頓死してしまいます。最近の研究では、シュイスキー公を中心とする反ボリス勢力に一服盛られた、という説もあるようでございます。 いずれにしましても、ここにボリスの7年にわたる政権は幕を閉じたのでございました。 |
(2004.1.1/Jun-T) |
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