◇「ボリス・ゴドゥノフ」の時代背景◇
文中、この色で表示されておりますのは、オペラの中の登場人物でございます。

このオペラはロシア史上の一時代を舞台としております。それは「動乱時代」と呼ばれる期間でございまして、およそ16世紀末〜17世紀初頭にあたります。
わが国では、安土・桃山時代から江戸時代初めの頃でございますね。

「タタールのくびき」という言葉がございますが、中世ロシアはチンギス汗の興したモンゴル帝国の分国、キプチャク汗国に支配されておりまして、これがロシアの後進性を決定した重大な要因とされております。
それはともかく、この「タタールのくびき」を決定的に脱したのがかの有名なイワン雷帝でございました。

さて、イワン雷帝には3人の息子がおりましたが、長男は死亡したため(父親であるイワン雷帝に殴り殺されたんだそうですよ。コワイですねぇ)、雷帝の死後帝位についたのは次男のフョードルでございました。
ボリス・ゴドゥノフ(1550頃〜1605;在位1598〜1605)は名門の出ではございませんが、実の妹をフョードルに嫁がせ、皇帝の義兄となりました。政治的に有能でありましたボリスは、やがて摂政として次第に実権を手中にしてまいります。

皇帝フョードルは暗愚でございました。フョードル時代にロシアは積極的な商業政策で国内の経済基盤を強化し、また国際的な地位も向上するのでございますが、これらはすべてボリスの推し進めたものでございます。しかしながら、暗愚でも皇帝は皇帝、かりにフョードルが崩御したとしましても、次期皇帝の地位は皇太子ディミトリーに回ってくることになっております。
このディミトリーと申しますのはフョードルの弟、つまりイワン雷帝の三男でございまして、子どものいないフョードルの第一後継者となっておりました。
この時点では、いかに有能とは申しましても、ボリスに皇位が転がり込むことはありえない状況でございました。

ところが1591年、皇太子ディミトリーが謎の死を遂げるんですねぇ。今日の定説によりますと、どうやら死因は癲癇(てんかん)の発作による事故死だったということなのでございますが、世間にはボリスによって謀殺されたという疑惑が広がり、暴動まで発生いたします。
ボリスは強権でこの疑惑を押さえ込みますが、この時から「皇太子は難を逃れ、隠れて生きている」という噂がひそかに囁かれるようになったのでございました。

1598年、皇帝フョードルが跡継ぎのないまま崩御いたします。ボリスにとっては最大のチャンス到来でございます。

ボリスは修道院に閉じこもり、政務を見なくなってしまいます。アジア的専制政治に慣れたロシアのこと、皇帝なしでは政治が機能いたしません。間もなく、あちこちから新皇帝要望の声が聞こえ始めます。
むろん、これはボリスの計算通りでございます。さらに、扇動者を使って皇帝不在を嘆かせますと、群集心理とは恐ろしいものでして、人々は群れをなして修道院に集まり、ボリスに帝位に就いてくれるよう歎願を繰り返すのでございます。

機は熟しました。
自分にそのつもりはなかったのだが、民衆の願いを聞くためやむを得ず……というポーズを作り、ボリスは帝位に就くことを承諾いたします。

盛大な戴冠式が執り行われ、いよいよ皇帝ボリス・ゴドゥノフの誕生となったのでございます。

帝位に就いたボリスの政治は、善政というべきものでございました。ロシアの国力は増大し、経済基盤も強化されたようでございます。

ところが1601年から03年にかけて、ロシアを大飢饉が襲います。
ボリスは可能な限りの手を打って状況の打開を図りますが、餓死者の増大・伝染病の蔓延など、すべては悪い方に転がり、民衆の非難・憎悪は皇帝ボリスに集中します。為政者とはつらいものでございますね。

ちょうど時を同じくしまして、ポーランドの貴族ムニシェク家の令嬢マリーナと婚約したディミトリーという男が、ポーランド軍の支援のもと、モスクワに進軍してまいります。このディミトリーは自らを「イワン雷帝の三男で、死んだと思われていた皇太子」と称し、ボリス憎しに凝り固まった民衆も、歓呼して「われらが皇太子」を迎えるのでございます。

この混乱のさなかの1605年、ボリスは心労のためか、息子フョードルを後継者に指名すると、あっけなく頓死してしまいます。最近の研究では、シュイスキー公を中心とする反ボリス勢力に一服盛られた、という説もあるようでございます。

いずれにしましても、ここにボリスの7年にわたる政権は幕を閉じたのでございました。

(2004.1.1/Jun-T)
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