そのような時代に生きた交響曲作家として、ニールセンもシベリウスも時とともに自己のスタイルをそれぞれのやり方で変革していった作曲家でありました。彼らの初期の交響曲と晩期のそれを比べてみれば、その距離の大きさに自らの殻を破りつつ成長していった跡が見て取れると思われます。
ところが、同じ交響曲作家でも、グラズノフの場合、そのような大きな自己変革は認められません。もちろん、最初期の作品と後期のそれとの間に円熟度の相違はございますが、ニールセンやシベリウスに比べると、その振幅ははるかに小さいといわざるを得ないのでございます。
おそらく、この点が音楽史上における交響曲作家としてのグラズノフの評価を、今日大いに引き下げる要因のひとつになっているのではないでしょうか?
グラズノフは、音楽史上に時折現れる「神童」のひとりでございます。
13歳で作曲を学び始めたことはとりわけ早熟とも申せませんが、わずか1年ほど後にはバラキレフがその才能に注目し、彼の紹介で少年グラズノフは当時のロシア楽壇の大物の一人、リムスキー=コルサコフに師事することになります。
グラズノフの神童ぶりが決定的になるのはここからで、リムスキー=コルサコフは教え始めてから1年ほどでこの少年を弟子というより、音楽仲間として扱うようになったということでございます。
グラズノフはリムスキー=コルサコフに教わるようになってからまもなく第1交響曲に着手し、15歳の年に完成しておりますが、リムスキー=コルサコフはこの作品を絶賛し、自らの手で初演いたしました。グラズノフ16歳の年でございます。
交響曲の初演は大成功で、ボロディンやスターソフ、後には大御所リストも高い評価を寄せ、少年グラズノフは一夜にして有望な新進作曲家として認められたのでございます。
この神童の才能に惚れ込んだのが、材木商で大富豪のベリャーエフでございます。ベリャーエフはグラズノフの作品の上演を後援し、1885年には楽譜出版のベリャーエフ社を起こし、グラズノフをはじめ、リムスキー=コルサコフやボロディンなど、グラズノフと交流のある作曲家の作品を精力的に出版いたします。また、ロシア音楽の振興を目的としたグリンカ賞を創設し、第1回の受賞者には、ボロディン、チャイコフスキーとともに、若きグラズノフも名を連ねております。
少年時代に華々しくデビューしたグラズノフは、その後も順風満帆の創作活動を続け、19世紀の終わりまでに、6曲の交響曲、2曲のバレエをはじめとする数多くの作品を発表し、ロシアを代表する大作曲家としての名を、ヨーロッパばかりでなくアメリカにまで轟かせました。しかもこの時点でグラズノフはまだ35歳、年齢的にはようやく青年期が終わり、壮年期の入口に足を踏み入れたばかりに過ぎません。
ところが20世紀に入り、とりわけ1905年のペテルブルク音楽院院長就任以来、作品数は目立って少なくなってまいります。院長就任の年、グラズノフはいまだ40歳という若さですが、翌1906年に第8交響曲を発表したあと、もはや交響曲を完成することはございませんでした。1910年頃を境目として、グラズノフはすべての精力を音楽教育に注ぎ込んだ観があり、この点、後半生を教育者として生きたデュカに通じるものがございます。
グラズノフは自己の創作スタイルを生涯変えようとせず、19世紀ロシアのアカデミズムを固守しようとした人でございますが、時代の流れはそのような創作態度の作曲家の筆を鈍らせたのかもしれません。また、若い頃からの飲酒癖が高じ、アルコール依存症になってしまった原因のひとつに、自らの美意識と音楽界の現実の動きとの乖離があったかとも思われます。
さて、第4交響曲は1893年、グラズノフ28歳の年の作品でございます。
グラズノフは作曲家としてのスタートが極めて早かったこともあり、この年齢ながら、第4交響曲から第6交響曲までの3曲は、中期三大交響曲とされることもございます。実際のところ、今日コンサートで演奏されるグラズノフの交響曲は、ほとんどこれら3曲に限られると申しても過言ではございません。
グラズノフの交響曲は、基本的に伝統的な4楽章構成をとっておりますが、第4交響曲だけは例外で、珍しく3楽章で構成されております。さらに珍しいのは、この曲が緩徐楽章を欠いていることで、これは3楽章制の交響曲の多いフランスでも、めったに見かけることがございません(フランスの3楽章制交響曲は、スケルツォ楽章を欠くのが普通でございます)。
第1楽章は序奏のついたソナタ形式ですが、楽章全体にわたって序奏の憂愁に満ちた雰囲気が支配的で、ちょっと緩徐楽章を聴いたような印象が残ります。この曲に緩徐楽章が存在しないのも、もしかしたらこのような冒頭楽章の性格によるのかもしれません。
第2楽章は軽妙なスケルツォで、こうした曲ではバレエ音楽で発揮されたグラズノフの才能の輝きが窺われます。
第3楽章は、ちょっと第1楽章を想起させる序奏に始まり、ソナタ形式の主部に入ると祭典的な賑々しい音楽となります。グラズノフの交響曲というのは概ねこのような、ある意味能天気なフィナーレで締めくくられておりますが、これは時としてそれまでの楽章で積み上げてきた気分をぶち壊すことがあり、第4交響曲の場合も若干そのケースに該当するような気がいたします。もしこの楽章が第1楽章のようなしみじみとした音楽だったら、第4交響曲はさらにユニークなものになっていたのではないかと、私などはつい思ってしまいます。
グラズノフはロシアの交響曲史上、ボロディン、チャイコフスキーの後を継ぎ、19世紀の終わりから20世紀初頭のロシア交響曲の風景を豊かにした人ではございますが、その穏健でややインパクトに欠ける作風のために、今日では大して重要視されておりません。
そこで、今年(2015年)はグラズノフ生誕150年にあたることもあり、「あそびの音楽館」では、この作品をピアノ連弾で音にしてみることにいたしました。
編曲者は作曲者自身でございます。多少なりともお楽しみいただければ幸いに存じます。