チャイコフスキー/ピアノ三重奏曲イ短調 作品50
「偉大な芸術家の思い出」
(Tchaikovsky : Piano Trio in A minor, Op.50
"In Memory of a Great Artist"
)

1866年、ペテルブルグ音楽院を卒業したばかりの25歳のチャイコフスキーは、モスクワで開校したばかりの音楽院に和声学の教師として雇用されました。このときの院長がニコライ・ルビンシテイン(Nikolai Grigor'evich Rubinshtein,;1835〜1881)で、衣食住すべて親身にチャイコフスキーの世話をし、以後15年にわたって親友となりました。一時不和になったこともありましたが、この間ニコライはピアニスト・指揮者としてチャイコフスキーの作品を演奏し続け、この作曲家の音楽の普及に大きく貢献しました。
1881年、イタリア旅行中のチャイコフスキーはルビンシテインがパリで客死したことを知り、弔問のためにパリを急訪します。そしてこの年の12月、滞在先のローマで亡友のための記念碑的作品として、大規模なピアノ三重奏曲に着手しました。
曲は1882年1月にひとまず出来上がり、4月の改訂を経て完成しました。曲はニコライの思い出に捧げられ、「偉大な芸術家の思い出」という副題をもっております。

ところで、1880年の11月に、チャイコフスキーはフォン・メック夫人に宛てた手紙の中で、ピアノと弦楽器のための室内楽を書く気がしない理由を大略以下のように説明しております。
「私の耳には、ピアノとヴァイオリン、あるいはチェロの組み合わせは、音響的に反発しあうように聴こえ、これらのソナタや三重奏曲などは、私には拷問であると断言できます」

この手紙からおよそ1年後、ピアノ三重奏曲を書き始めた時期の手紙には、以下のような記述がございます。
「これらの楽器の組み合わせに対する反感にもかかわらず、私はこのジャンルを試みようと考えています。すでに曲の冒頭を書き始めました。この三重奏曲がうまくいくかどうかわかりませんが、始めた以上は成功させたいと強く望んでいます」(1881年12月15日)
「初めは、何か書かねばならない、という義務感がありました。しばらくは、この楽器の組み合わせに心の耳を慣れさせるために、無理やり書いていましたが、今では私は興味と熱意をもって仕事をしています」(1881年12月27日)

翌年の1月には、チャイコフスキーはフォン・メック夫人に曲の完成を、以下のように報じております。
「私の三重奏曲は出来上がりました。見たところ、この曲の構成は上出来だと自負してよいかと思います。ただし懸念はあり、それはこの曲が室内楽的な書法から大きく逸脱しているのではないかという点、要するに、これはピアノ三重奏曲ではなく実は交響曲なのではないかという疑惑で、それについて私には判別できません」(1882年1月25日)

私的な初演は1882年3月11日、ニコライ・ルビンシテインの命日に、モスクワ音楽院で行われました。
4月にチャイコフスキーは主として第2楽章を改訂し、10月にはモスクワで公開初演され、その後も世界各地で演奏され続けて今日に至ります。

この曲はピアノ三重奏曲というジャンルでは演奏時間で最長の部類に属し、また2楽章構成という点でも異色作でございます。
第1楽章は大規模なソナタ形式で、副題に見えるように悲歌的な雰囲気をもっております。
第2楽章はきわめて多彩な12の変奏曲とコーダから成りますが、第12変奏はそれ自体がソナタ形式で書かれ、全曲のフィナーレも兼ねた大がかりなもので、この部分だけで第3楽章の要素をもっていると申しても過言ではありません。これに続くコーダでは第1楽章の悲歌的雰囲気が戻り、最後は葬送行進曲的に曲を結んでおります。

ここではこの大作を、ピアノ二重奏の形に編曲して掲載いたしました。
ピアノのみで演奏された「偉大な芸術家の思い出」、お楽しみいただければ幸甚でございます。


第1楽章/悲歌:モデラート・アッサイ ― アレグロ・ジュスト 
   (I. Pezzo Elegiaco : Moderato assai - Allegro Giusto)
第2楽章/アンダンテ・コン・モート ― アレグロ・リゾル―ト・コン・フォーコ 
   (II. Tema con variazione : Andante con moto -
      Variazione Finale e Coda : Allegro risoluto e con fuoco)

ピアノ三重奏曲イ短調作品50「偉大な芸術家の思い出」・全曲連続再生 

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◇背景画像提供:自然いっぱいの素材集
◇編曲・MIDIデータ作成:Jun-T ◇録音:jimma